さて、今日は前回予告した『TRAJAに恋して』をお伝えします。
ごめんなさいね、三日坊主で。恐怖のめんどくさがり屋で。怠惰なりに頑張って書きます。 さて、ちょっと前を振り返る事になるんだけど、3月13日の夕方の便でマカッサルというインドネシアのスラウェシ島南端まで飛んだって所で終わったんじゃないかな。 まぁ、その次の日はこの先待ち受けているであろうドキドキやワクワクや不安やらをバックパックに詰め込んで、その宿を後にしたわけで。 頼んでいたトラジャへのバスチケットを握り締めてバイクタクシーでバスターミナルに辿り着いた時、あまりの客引きのアグレッシブさに一瞬びびった。 私一人旅とかするし、好奇心旺盛でぴょーんってどっか行っちゃうくせに、その反面結構びびり。それ表に出さないように、唇を富士山のようにキュッて結んで平気ぶってるけど、実際びびってるのだ。 まぁ何はともあれバス停でトラジャ出身のおっさんと知り合って、英語ともインドネシア語も言えない独特の言語でコミュニケーション取った気になりつつ、一方でトム・ボーイっぽい女の子(だよなぁ?)に妙に気に入られて、遠く離れた実家に誘われたりとバスを待っていたのです。 てかあの子女の子なのか・・・?ちょっと勇気がなくて聞けなかった・・ トラジャまでのバスは約10時間の旅。バス自体はかなりゆったりしていて、まさかインドネシアの片田舎でこんなにいいバスに乗れるだなんて思ってもいなかったから、軽く気抜けする。ラオスでのバスは本当にやばかったから。VIPバスの値段取られて、めちゃめちゃローカルでしたから。ぼーろぼろのバスに定員以上を詰め込んで、人口密度200%にして、ぐにゃぐにゃの山道を走行しているうちに。隣の隣のお兄さんがゲロゲロ。リアルゲロゲロ。でも誰も何もしようとしないし、バス会社の人間に片付けるように言ったって『やだ』の一言。 『おいっ!』 なんとか片付けさせて、出発しても、みんな共酔い。ゲロゲロ天国。てか地獄。 そんな中でもきちんと睡眠はとっていた私って結構強いかも。 何にしろ今回のバスはそんな事はまったくなく、中休みを何回かはさみつつ10時間後にはきちんとトラジャに着きました。 このトラジャって言うところはかなり伝統的な儀式や生活様式を今でも守っている地域で有名で、特にお葬式で有名なんだ。他の地域とは違う昔からの伝統の方法で葬式を行っていたり、お墓もかなり特徴を持っているんだ。実は私が小学校の時、いつも見ていた『世界ふしぎ発見』で一度放送されたことがあって、もう10年も昔に見たにもかかわらずかなり鮮明に覚えてるんだ。もうその番組で見た内容は記憶の片隅に眠っていたけど、インドネシアのガイドブックを読んでいるときにそれを発見して、小さい時のあの好奇心を実際に体験しよう!っていう事にいたったのです。 つまり10年越しの願い。こりゃ、ワクワクするわけだ。 さて、その葬式がどう特徴的なのかというわけで、実際に参加してきました。 タバコなどの寄付を持ち寄れば観光客でも参加させてもらえるらしい。 トラジャに着いた翌日、田んぼやら山やらをバンクで走り抜けて、辿り着いたとある村のお葬式に参加。トラジャではお葬式において沢山のバッファローを生贄にするんだ。 そのバッファローの数は家族の階級によって変わってくるけど、一般的な家庭ならば大体5頭ほど。金持ちになると12頭から24頭くらいが平均らしい。 遺族は家の敷地内にいくつかのやぐらを組み、その中央でバッファローを殺してその場で解体するんだ。そしてその肉はその日の弔問客に振舞われるというわけ。バッファローの肉がゴッロゴロ入ったスープが敷地内でぐつぐつ美味しそうな匂い(?)を放ってました。 さらに残りの肉は教会やら、市に寄付されるらしい。そう、教会なんです。実はトラジャの85%は敬虔なクリスチャン。こんなにも独特な伝統を持ちながらも一方でとても敬虔なクリスチャン。このバランスがなんとも言えず興味深い。 話戻って、犠牲にされたバッファローの角はその家庭の伝統家屋の前にくくりつけられていく。毎回人が死ぬたびに角をくくりつけて行くから、家の前の角を見れば大体その家の歴史というのが推測できるというわけ。 さらに葬式では豚も生贄にされる。運良く(?)バッファローの殺されるシーンには出くわさなかったけど、彼らが豚を殺すシーンはばっちり見てしまいました。あれは、やっぱり居たたまれないね。断末魔っていうの、初めて聞いた。今、目の前で一つの命が消されていく。生への渇望、もがき、苦しみ。そんな瞬間を見たのは初めてだった。 どうしたって耳をふさぎたくなってしまう。目を閉じたくなってしまう。 かわいそう、なんて言いたくなってしまう。 でも、それが生きるってことなんだな。(ベジタリアンはまた別の話として)私は色んな命の上に生きている。色んな命の犠牲の上に生かされている。 スーパーに行けば、パックされた肉がならび、『豚肉』、『牛肉』、『鶏肉』という名の『食料』が簡単に手に入る。自分の手を何一つ血で染めることなく、買い物篭にいれ、それを極当たり前のように口に運んでいる。 そこに命があるということを、考えることすらなく。 パックの肉から断末魔が聞こえてくるわけもなく、ハンバーガーに動物の鼓動がきこえてくるわけもなく、私たちは目の前の食料を食べている。 社会がどんどん『発展』するに従って、人間はどんどんと自分たちが自然を超越した存在だと、とんだ勘違いをするようになり、すべての命は人間のコントロール下にある、だなんておごり高ぶっている。もはやそれが当たり前の社会では、そういう状態に疑問符を投げかけることすらないのが事実。 人間の生活の為に必要な『食料』にもともと命があったかどうかなんて、もはや関係ない。 その食料にありがたみを感じる必要なんてない。 それで良いのか??? 私は今回、トラジャで何度となく豚やら鶏やらの断末魔を聞くことで、命というものについて考えさせられた。 いや、やっぱり嫌だけどね、断末魔聞くのとか。 実際耳も軽くふさいじゃうけどね。 でも、直視しなきゃ。それがリアルなライフだもんね。 さていくら寄付を持ち寄ったって、いくら謙虚に、礼儀正しく接したって、どうしても気になったのが、私が葬式という人生(輪廻転生を信じる彼らにとっては葬式だって大切な人生の一部)最大 のイベント、そしてこんなにも神聖な儀式に観光客として参加していいのかどうか、ということ。 もちろん、それを見るために来たんだけど、実際来てみたら躊躇してしまう。 私がもし村人だったらどう思うだろう?自分の家族の葬式が『見世物』としてさらされてる、と感じないだろうか。 心配になってガイドやら色々な人に尋ねてみたが、トラジャの人はオープンだからきちんとリスペクトした態度さえとればむしろ歓迎されるという。 確かに葬式には二件いったけど、二件ともで暖かい歓迎を受けた。 それにここの葬式は日本のような悲しい雰囲気がない。 もしかしてガイドのいっていたこともあながち間違ってないのかな・・・? とはいえ、やっぱり不安だ。私自身興味があるし、色々みたいけど、この地の観光地化がどんどんすすみ、これ以上にどんどん必要以上の『発展』をして欲しくないなどという自己中な願いもぬぐいきれないのが正直なところ。 矛盾。 さぁて、ちょっと筆を休めます。 続きはまたあとで。
by sykkngw
| 2006-03-23 20:19
| Journey to Indonesia
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